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由緒

川越八幡宮は人皇第68代、後一条天皇(1016−1036)長元3年(1030)甲斐守源頼信の創祀と伝えられています。
長元元年(1028)下総国千葉の城主前上総介平忠常謀反を企て、安房、上総、下総の3ヶ国を切従へ破竹の如き勢いにて威を八州に震い大軍を起こして武蔵国に押出せし時、冷泉院判官代甲斐守源頼信(多田満仲の御子源光朝臣の御令弟)長元3年平忠常追討の倫旨を賜り、当地に於いて必勝祈願をし敵陣に斬り込めば、忠常の陣中麻の如く乱れて3日3夜追討して遺
滅せり頼信御神威を感得喜悦して直ちに八幡神社を創祀した。尚、東松山市の箭弓稲荷神社も頼信が当社と同じ祈願主旨で同時期に御社殿を建立した。

当時このあたりは、豪族河越氏の所領で鎌倉時代、神社後方に河越氏の館があり、応永32年(1425)
関東管領足利持氏河越兵庫助の館跡地の半分を当神社に日供料として寄進したといわれています。

長禄元年(1457)川越城が成り、太田道灌は当神社を篤く崇敬し分霊を川越城内の守護神として奉斎した。爾来、川越の歴代城主、城代の崇敬が深く、殊に天正18年(1590)以来城主酒井氏一族の崇敬はすこぶる篤く、社殿の造営、神田、神宝の寄進が相次いだ。酒井氏は国替後も益々崇敬を加え、しばしば改築費、修繕費等を奉納した。
文化9年7月1日(1812)姫路城主酒井雅楽頭源朝臣忠衛は御神号河越八幡宮(文字は向鳩形)の額並に掛物一幅を奉納、これより先寛永2年(1625)徳川家光日光社参の折、酒井備後守忠利は道中安泰の祈願をなし、その功により葵紋付祭器具の寄進があった。明治維新の際、別当万蔵寺を廃したが、川越城主の領する地の人々は当神社を川越の守護神として崇敬している。
現在の社殿は昭和48年8月より昭和50年8月(竣工祭は51年5月)までの2ヶ年間をかけて本殿、拝殿を改築、幣殿を新築、社殿は鉄筋コンクリート造り、朱塗りで屋根は銅板葺である。
昭和51年秋当神社は埼玉県にて一社、神社本庁第一次神社振興対策モデル神社に指定された。


 


長い人生行路を見るとき心の清き人こそ、神の御心に叶ふことを詠んだものである。

世に八幡の神は全国八万神社のうち分霊社約1万5千社を数え、その総本社は九州宇佐八幡宮であり、宇佐から京都石清水八幡宮が石清水八幡宮から鎌倉の鶴岡八幡宮が勧請されたが、当神社は宇佐八幡宮より勧請されたと伝えられている。

御祭神の応仁天皇は神功皇后と共に大陸交渉伴って大陸文化を我国に輸入し、古代にあって日本文化の興隆をはかられた御神徳が仰がれている。又、応神天皇は神功皇后の御子で母子神の信仰、すなわち母が子を抱きかかえこれを大切にし、自分の御子神(応神天皇)を自分の替りとしてこの世に下されたものである。八幡様の信仰は母が子を抱きかかえた慈愛を以ってこれをはぐくみ育てる大愛を本願とされており母の愛こそは純の純たるもので八幡信仰の基である。



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